知っておきたい!ジーパンの歴史
今や一本も持っていない人を見つける方が難しくなったジーパンは歴史的に見れば労働者の勲章であり、反逆者のシンボルと言えます。アメリカの歴史とともに成長し、世界中に広まっていったジーパンは様々な側面を持ちながら、複雑に入り組み私たちの生活にとけ込みました。そんなジーパンの歴史について、今一度解説していこうと思います。
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ジーパンの誕生
ジーパンがこの世に登場したのは1870年代。当時、ゴールドラッシュに沸く北米の鉱山では多くの鉱夫達が働いており彼らの悩みは『作業中にズボンがすぐに擦り切れてしまう』という事。仕立て屋のヤコブ・デービスがリーバイス社のキャンバス生地を使用し、銅リベットでポケットの両端を補強した作業用のズボンを販売したのです。これが、ジーパンの誕生であり、当時は作業着として存在していたのです。
ジーパンとリーバイス社
大好評を博したヤコブ・デービスの生み出したジーパンだったのですが、リベットを使用したズボンというアイデアを守る為に必要な特許出願費(68ドル)が当時のヤコブにとっては大金過ぎて捻出できず、生地商人のリーバイス(リバイ・ストラウス)と出願費を折半しました。リーバイスは衣料生産部門を立ち上げ、ヤコブをサンフランシスコに呼び、ジーパンブランドとしてのリーバイスが始まったのです。
リーバイスの名作ジーパン"501"の登場
デニム生地の耐久性が評判を呼び、労働者達の間で大ヒットとなったため、様々なメーカーがデニム生地の作業用ズボンの生産に乗り出しました。そこで、製品の良さはもちろんの事、広告などで差別化を図っていき、その広告に恥じぬ品質を求め、素材もより丈夫な物を徹底的に追及し、1890年頃に、最高級のジーパンに対し[501]というロットナンバーを付けジーパンとしてのイメージをリーバイスが作り出していったのです。
ジーパンとカウボーイ
リーバイスの501が登場して約20年の月日が経った頃。もともと食料品を扱う会社だったリー(Lee)が作業着の生産に乗り出します。この頃になるとリーバイスの特許も切れており、様々なメーカーが着手。その殆どが今となっては現存していませんが、カーハートなどもこの世代。
労働着の需要も増えてジーパンはかなり大きな市場へと変化しましたが、あくまでもワークウェアとしてのジーパンであり使用者は作業員です。そんなジーパンの一般家庭への普及に一役買ったのがカウボーイです。
”デュードランチ”によるジーパンの普及
当時の映画に多く出演していたのは開拓時代のカウボーイ達。そんな映画の中でカウボーイ達がジーパンを使用していたのに目を付けリベットで馬の鞍を傷つけないように、コンシールド・リベットを採用。実際のカウボーイ達からも高い評価を受けて多くの人達に浸透しました。そんななか起きたのが1929年の世界恐慌による牛肉の価格下落でした。
そこで牧場主は『デュード・ランチ』と呼ばれる牧場観光を企画。多くの富裕層が映画やポスターでみたカウボーイ達への憧れから、自分たちも同じようにジーパンをはいて牧場で休暇を過ごしたのです。そこでリーバイスは女性用のジーンズを世界で初めて生産。
コレにより作業員の多い西部だけでなく、富裕層の多い東部にも浸透。しかしまだまだ、デュード・ランチ用の衣装程度の位置づけでした。
第二次世界大戦とジーパン
1939年の第二次世界大戦が起きるとアメリカはそこに参戦。そして大東亜戦争の開始によって、アメリカでは物資統制が開始。ジーパンも股リベットの廃止やペンキステッチへと変更になったりより、オリジナルな物へと変化、発展を遂げていきました。また、このタイミングでリー(Lee)はワークウェア的なシルエットから、体にフィットしやすいタイトなシルエットへと変更していく事で戦後のカジュアルウェア市場へアプローチしていったのです。
ブルーベル社がジーパンのブランド『ラングラー』を設立
物資統制が終わり、リーバイスのバックポケットのステッチが復活。そんな1947年位、ワークウェア市場で世界最大のメーカーへと成長したブルーベル社がジーパンブランドの『ラングラー』を立ち上げました。世界で初めて"ジーンズ"という言葉を使用したブランドとして知られます。
そんなラングラーが他のジーパンブランドと大きく違った点は『史上初のデザイナージーンズ』で有った事なのです。デザイナーのロデオ・ベンはジーパンにフィット感や機能性をもたらし、実際のカウボーイ達の意見を取り入れたジーパンをデザインしたのです
女性へのジーパンの普及
当時のジーパンと言うのは労働者階級、そして男性の為のスボンでした。また、当時の女性のズボンはサイドにジッパーが付いているのが当たり前センターフロントのジッパーを下ろすのは良くないという意識があるため、ジーパンは女性に使用される事がほぼ無く1940年代を迎えたのですが、戦時下では女性が兵器工場等の作業員として戦争に従事する事になる為、そこでの作業着としてジーパンが採用され、多くの女性が経験します。このため、女性達の間でも抵抗がなくなり、徐々に普及していきました。
全世界へのジーパンの普及
戦後、戦勝国となったアメリカは世界一の経済大国となり、多くの国にアメリカの文化が普及し拡散されていくのですが、もちろんこの中にはジーパンという文化も含まれていました。特に、リーバイスの501を履いたアメリカの軍人達というのは、世界中にジーパンを広める良い広告塔になったとも言えます。
ハリウッドスターとジーパン
戦争が終わるとハリウッド映画への注目度が高くなりました。
娯楽の少ない時期であり、必然的に映画は多くの庶民に愛されます。そこで生まれたハリウッドスター達がジーパンを履いていた事で、若者達は普段着としてジーパンを愛用するようになっていきます。
マーロン・ブランドとジーパン
1951年にエリア・カザン作の『欲望と言う名の列車』で主役に抜擢。不良としてのキャラクターを演じて人気を獲得したマーロン・ブランドが、1953年の『乱暴者(あばれもの)』で演じた不良役が大人気となりました。劇中でマーロンが黒い革ジャンにブーツ、そしてジーパンをはいた格好でバイクを乗り回している姿に多くの若者達が魅了されていったのです。大人は自分の子供にジーパンを履かせようとはしませんでしたが、それがまた若者にジーパンを広めていった背景でもあるのです。
ジェームズ・ディーンとジーパン
1955年に『理由なき反抗』でジム役を演じたジェームズ・ディーン。大人と子供の中間である"若者"という存在を世間に知らしめた作品で、不良はスラムや貧しい家庭だけでなく一般家庭からも生まれる事を表し、ジェームズ・ディーンの演じた”ナイーブで傷つきやすい若者”に対して、多くの若者が共感し、そして熱狂し一種の社会現象になりました。そんな映画の劇中で使用されたリー(Lee)の「101ライダース」が、沢山の人に使用されジーパンは若者に愛されていきました。
ファッションアイテムとしてのジーパンへ
ハリウッドスターの影響によって徐々に作業着としての側面が薄れ、ジーパンのブランドもカジュアルウェア市場に本格的に力を入れた事で、ファッションアイテムとして徐々にジーパンが認知されていきました。作業着としてのジーパンと違い、徐々にシルエットがタイトになり、一般家庭でもジーパンを使用する人が増えてきたのもこの辺りです。
カウンターカルチャーでジーパンはヨーロッパへ
1960年代に入ると、イギリスのモッズムーブメントの流行からヨーロッパ圏でホワイトリーバイスやリーのウエスターナーが浸透。細身のスーツやシャツを好むモッズ達から細身のジーパンが評価され、リーバイスは年間で1億本という空前の売り上げを叩き出しました。そんなジーパンはビートルズやローリングストーンズなどに愛用され、ヨーロッパでのファッションとして徐々に取り入れられていくのです。
アメリカのカウンターカルチャーとジーパン
ヨーロッパでカウンターカルチャーとしてモッズが流行したように、アメリカではヒッピームーブメントと呼ばれる文化が生まれました。そこでは、ラブ&ピースというテーマや、フォークミュージックからLSDなどのドラッグに影響を受けたサイケデリックミュージックなど、反体制的なカウンターカルチャーが社会現象となっていきました。
そんなヒッピー達が"自由と反抗"の象徴であるジーパンを好んで使用し、様々な文化と織り混ざりながらジーパンはファッションに浸透します。
パンクムーブメントとジーパン
アンチ・ヒッピームーブメントとして生まれたパンクカルチャーでは、ビリビリに引き裂いたジーパンが象徴的な存在となりました。ダメージを与えても長く使用出来るジーパンの特性もあってこれが徐々にファッションとして定着し、ジーパンの新しい側面が出ます。
ジーパンがハイファッションへ普及
もとは作業着として生まれたジーパンが、徐々にファッションとなり認知されていくと同時に、ハイファッションにも問い入れられます。1960年代に登場したデザイナーであるイヴ・サンローランによってデニム生地を使用したプレタポルテのコレクションを展開し、デニム素材のパンツスーツなどがハイファッションで普及しました。ハイファッションとジーパンを結びつけたイヴ・サンローランは「ジーパンを私が世に出せなかった事が残念でならない」と言っています。
ジーパンとハイファッションの結びつき
その後も、ハイファッションには度々ジーパンが登場します。1976年にカルバン・クラインがジーパンを取り上げたり、1981年にアルマーニが「アルマーニジーンズ」を展開したりと、ジーパンはもはやファッションに欠かせないアイテムとなるのです。
>>アルマーニジーンズ(Armani Jeans)について詳しくはコチラ
デザイナージーンズの普及
ジーパンがファッションとして定着してきたあたりというのは、デニム生地という素材自体の面白さや斬新さが中心となっていました。しかし1977年にカルバン・クラインがジーパン自体をピックアップし、上流階級へとジーパンをアピールしていく足がかりを作りました。そのキッカケとなったのがカルバンクラインのジーパンに対する言葉『ジーンズとはエロティシズム』という表現に集約されていきます。
ジーパンに対する考え方や見方の変革期
これまでのジーパンは『象徴』という存在価値が核でした。自由の象徴、反抗の象徴といったメッセージ性が強かったのです。しかしデザイナージーンズは、セクシーである事が核になりました。いかに美しいシルエットを出すのか、という見方でデザインされたのです。
生まれた当時は「履き込むことで自分で馴染むズボン』だったのが、製品として世に出された時点で既に完成されているもの、に変わったのです。
日本におけるジーパンの歴史
日本でのジーパン普及に関して言及するのであれば1945年に遡ります。終戦後、GHQが大量に放出した古着のジーンズが普及のきっかけとなり、そこからアメリカの映画や音楽等の文化と共に浸透していきました。ちなみに、日本で初めてジーンズを着用したのは白洲次郎と言われています。
1956年になると栄光商事が日本で初めてジーンズの輸入販売を開始。そして1958年に現在のビッグジョンが日本で初めてジーパンを生産。この事から、今でも岡山はジーパンの聖地とも呼ばれています。